エンジン
1946年に発売した最初の自転車用補助エンジンは、無線機の発電用エンジンを流用したものだが、オイルで衣服が汚れることを防ぐ改良を施していた。また、出荷前にすべて分解、整備をおこない、再組立の後に試運転もおこなった。終戦直後の物がない時代、動くだけでも充分だったが、少しでも故障が少なく、使いやすいエンジンに仕立てる手間暇は一切惜しまなかった。
その結果、「Hondaのエンジンは故障が少なくよく走る」と評判となった。500基の在庫は底をつき、新エンジンの開発に着手した。完成したHonda初のオリジナル市販エンジン「ホンダA型」は、2ストローク空冷単気筒50ccだった。
「ホンダA型」はダイキャスト鋳造を前提に設計。ダイキャスト鋳造は削粉を出さず、材料も少なくて済み、工程が少ないなどのメリットはあった。反面、大量生産には効果的だが、初期投資が莫大で規模の小さな創業期のHondaで採用する手法としては無謀とも言えた。しかし、「同じ苦労をするのなら先にしろ」と、将来を見越しダイキャスト鋳造の採用に踏み切った。
「ホンダA型」は、高温になる排気管をフレームに沿わせ下側に排気するよう配置し、安全性にも配慮した。当時はネジの精度が低く、ゆるむことがよくあった。ナットがゆるんでもすぐに大きなトラブルが起きないよう、今までにはない工夫を各所に施していた。さらに特殊工具がなくても分解組立が出来るような設計もしていた。「ホンダA型」を取り扱う自転車店の評判も高かった。
取り付けも容易なカブ号F型は大ヒット作になった
「ホンダA型」は1951年まで続くロングセラーとなった。続いて設計した補助エンジンの「カブ号F型」は、軽量化と走行安定性を更に向上させて設計された。当時の日本の平均的なサラリーマンの初任給3ヶ月分に相当する2万5千円という高価な自転車用補助エンジンだったが、価格以上の高品質が評価され、発売を開始した年だけでも累計2万5千台が生産される大ヒット作となった。
「カブ号F型」を発売した1952年は、終戦から7年が経過して日本経済の復興も進捗していた。建設業や農業、漁業など人力に頼っていた動力源の機械化も進んだ。
Honda初の汎用エンジンH型は背負散粉機用として開発された
「カブ号F型」を発売した1952年は、終戦から7年が経過して日本経済の復興も進捗していた。建設業や農業、漁業など人力に頼っていた動力源の機械化も進んだ。Hondaは初の汎用エンジンとなる「H型(強制空冷2ストローク50cc単気筒、1馬力)」エンジンを1953年販売を開始。
主要部品はアルミダイキャスト化を採用し、総重量6kgの軽量コンパクトなエンジン。重労働であったエンジン始動もロープ手動2回で始動可能と好評で、背負式散粉機用エンジンとしてOEM供給もされた。また、「H型」エンジンはブラジルのコーヒー園向けなどに5000台近くを輸出した。
当時の汎用エンジンは、振動や音、臭いという弱点を持つ2ストロークエンジンか、大きく重く、扱いが困難な水冷ディーゼルや石油発動機が主流だった。これを4ストローク化することで低振動や、低燃費、低臭を実現し、耐久性の向上も可能となる。反面、構造は複雑化して、高コスト化になってしまう。
4ストロークエンジンのT型
しかしHondaは、4ストロークエンジンの開発に挑戦。1954年12月、コンパクトで、未経験の人にも扱いやすい農業用発動機「T型」エンジンの販売を開始した。
2.5馬力にパワーアップした「T型」エンジンには、農機特有の斜め状態でも安定した使用が可能な初の自社開発キャブレターを装着。マフラーにも、高温で変色にくい処理を施し、使い勝手の向上に加えて、デザイン性の向上にも配慮した。
1950年代も半ばから経済成長は加速した。農村の若者は労働力として都会へ移動、若者の減少が顕著になっていた。
1953年、農業生産力増進と農業経営改善を目的とした農業機械化促進法が制定され、1956年に自動脱穀機の普及は全国農家戸数の半分に当たる270万戸数に達していた。労働力不足による農家の機械化は確実に進んでいた。
日本における農機市場は専門メーカーによる寡占状態で、新規メーカーが参入する余地はないように見えた。
当時の農機具は、大型で重く、取り扱いも困難なプロユース仕様が主流であり、誰もがすぐに簡単に使える農機具は見当たらなかった。
このような状況の中でHondaは「一家に一台、Hondaエンジン付き商品を入れることで、労働を軽減し生産性を上げて、豊かな国にしたい」との思いを強め、1958年農機具設計部門を新設した。
Hondaがエンジン単体だけではなく、完成品としての「暮らし製品」の開発へと歩み始めた。もちろん「技術で人を幸せに」にするために。